【カテゴリー:読書】 (2009/11/10) 
書店でカバーをかけてもらう率100%を誇る(僕はそんなことはしない!)新書『音楽の聴き方』の中で、いろいろな演奏家、指揮者の興味深い対比があった。ネット上で見つけた音源を資料としていくつか拾ってみる。
◆シュナーベルとブレンデル(あるいはポリーニ)の対比 ∟シュナーベルのシューベルトD959の4楽章 ∟ブレンデルのシューベルトD959の4楽章
p122 彼(シュナーベル)は、明らかにこの(終楽章の)主題をセンテンスとして「読もう」としている。つまりシュナーベルの演奏は「語る」。少し思わせぶりに間を置いたり、早口で畳みかけたり、(略)聴いていて、それがいくつもの「単語」ないし「文節」から組み立てられていることが、すぐに分かるだろう。(略)まるで名優のモノローグのように聴こえるシュナーベルと比べると、例えばブレンデルやポリーニの弾き方は、よくも悪くも実に滑らかである。音量やテンポの伸縮ははるかに狭い。(略)すべての音が、きれいに磨かれた響きでもって、よどみなく流れていく。ただし「分節と抑揚」という点ではそれらは、極めて不明瞭だ。意地悪く言えば、単にきれいな響きが、だらだらと続いているだけのようにも聴こえる。 p123 シュナーベルばかりでなく、ルービンシュタインやホロヴィッツ、ヴァイオリニストで言えばクライスラーやシゲティの録音の中にもまた、かつての「言語としての音楽」の伝統を残す箇所が発見出来るだろう。(略)私が右で説明してきたのは、音楽美学において一般に、西洋近代に固有の「構造的聴取」と呼ばれているものである。
◆フルトヴェングラーとトスカニーニの対比 ∟フルトヴェングラーのベートーヴェン・シンフォニー5番/6番/7番 ∟トスカニーニのベートーヴェン・シンフォニー5番/6番/7番
p150 アドルノによれば、一見主観的に見えるフルトヴェングラーの指揮は、かつて存在していたある共同体の中で、その作品が確かに持っていたに違いない意味を、何とか現代世界へと救いだそうとする試みである。 p152 意味を捨象して機能主義に徹するのがトスカニーニである。(略)アドルノによればトスカニーニの演奏は、その圧倒的なサウンドにもかかわらず、奇妙に静的である。彼が何より批判するのは、響きの背後のフレーズ等の意味合いをトスカニーニがすべて消し去り、単なるピカピカの音響に還元してしまう点である。 p153 トスカニーニの演奏に最初のかすかな不信感を覚えたときのことを、アドルノは次のように回想している。「ザルツブルグからのベートーヴェンの第七交響曲のラジオ放送を思い出す。(略)すべてが比較にならないくらいよく聴き取れた。しかしながら、それは内的緊張が不足しており、生成するのではなく、あたかも最初の音から音楽が、まるでレコードのように、予め決定されているかのようであり、解釈自体が既に機械によるその転送中継のようだった」。
◆「音楽を聴く」という営みについて少しでも多くの可能性を想定してみる ∟『帝国オーケストラ』予告編 ∟アイスラ―「小さなラジオに」
p185 近代社会における音楽的感動の真実が、人々を地獄へ誘う子守歌や行進曲にもなりうるという事実は、最近公開された映画『帝国オーケストラ』を見れば、一目瞭然である。(略)鉤十字の下で《第九》(略)を指揮するフルトヴェングラー。(略)死に魅入られたような目をして聴き入る聴衆。(略)そして熱狂的な拍手を送るゲッベルスらの姿が映し出される。確かにここには、あらゆる身分階級を超えて、音楽の感動によって結ばれた共同体が存在している。 p187 次に挙げるのは、こうした群集性の対極にある音楽、絶対零度の孤独とでもいうべき状況の中でなお、外の世界との細い交信の糸をかろうじて音楽が作り出す、そういうケースである。例にとるのはハンス・アイスラーという作曲家。(略)ユダヤ系であったアイスラ―(略)がハリウッド亡命中に作曲した歌曲の一つ、「小さなラジオに」である。ブレヒトが書いた歌詞は次のようなものである。 「小さなラジオよ、亡命の間も真空管がこわれないように、気を付けて家から船に、船から汽車にお前を運んだ。敵どもの声がこれから先も私に届くように。僕のベッドのわきでお前は僕を苦しめる。最終放送はま夜中、一番は早朝。敵の大勝利ばかり知らせ、僕には苦痛だ。約束してくれ、お前は突然に黙りこんだりはしないと」(岩淵達治訳)。 (略)この一分にも満たないこの切ないメロディーは、突如として中断される。真空管が割れるような、衝撃的な短い不協和音によって遮断されて終わる。(略)アイスラ―歌曲は、その容赦ない中断によってこそ、時としてはラジオさえもが悲痛な「あのときあそこで」の一回性を燃え上がらせるということを、聴き手に教えてくれる。
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