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【カテゴリー:アート report】 (2010/12/14) 
(※以下、僕はネタバレとかまったく気にしないので、注意)
「完璧な駄作などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」
というわけで、どんな駄作からも、良い点を探そうと思えば見つかるものである。例えば、菊地凛子の演技は、見事に病んでいる人を表現したという意味ではハマっていたし、松山ケンイチも、澄まし顔のド変態を表現したと前向きにとらえるなら怪演であった。良い点以上。
さて、僕が原作を読んだのはずいぶん前のことで細部は忘れているし、原作の大ファンというわけでもないし、だからここで映画と小説の関係を詳しく云々するという形を取りたくはないのだけれど、映画の中で感じた疑問を解消するために原作に当たるという作業は行うことになると思う。
ワタナベ(松山ケンイチ)のしゃべり方が気色悪かったり、原作を読んでいないときっと意味不明な部分が多々あることはさておき、何より気になったのは、この映画がワタナベと直子(菊地凛子)との「愛」に最後まで固執した点だ。
病んだ直子が京都の療養所に入ってから、ワタナベは東京でもっぱら緑(水原希子)と会い、次第に緑に惹かれていくという中盤以降の展開。そして、色々あって、けんかした緑と仲直りする場面で、「緑が大好きだが、事情が込み入っていて、直子に対しては責任があって放り出せない。時間が欲しい」(大意)といった説明をする。やがて直子は精神状態が回復しないまま首を吊り、訃報を受けたワタナベは放浪の旅に出て、波濤打ち寄せる岸壁上で号泣する。
「責任」で繋がる人間関係は、もはや愛の薄れた関係のように僕には思える。あるいは、ワタナベは緑に気を使って「直子を愛している」と正直に言わなかっただけだろうか? いや、あの場面はワタナベが真摯に語り掛ける場面であり、やはり彼は「愛」ゆえではなく「責任」ゆえ(あるいは「責任ゆえの愛」ゆえ)、病んだ直子を見捨てられないと正直に吐露したのだ、と僕は考える。
しかし、その後直子が死ぬと、ワタナベは一人放浪の旅に出、まるで世界の中心で愛を叫ぶがごとく涎を垂らしながら泣き叫ぶ。このシーンに僕は大きな違和感を覚えた。緑が好きで、でも病んでいる直子は見捨てられなくて……、という複雑な心境の中、何がどうなると「岸壁で号泣」というド真ん中の愛情表現に至るのか。果たして原作はこうだったか? 疑問を解消すべく、仕方なく原作に当たる。確かに原作でも直子の死のすぐ前、ワタナベは「責任」という言葉を使い、緑にこう語り掛けている。
「本当はどうなのかというのがだんだんわからなくなってきているんだ。僕にも彼女(※直子)にも。僕にわかっているのは、それがある種の人間としての責任であるということなんだ。そして僕はそれを放り出すわけにはいかないんだ。(略)たとえ彼女が僕を愛していないとしても」(講談社文庫・下巻p208)
映画にはないが、原作でワタナベは、直子と療養所で一緒に暮らすレイコさんに、次のような手紙を送っている。
「僕は直子を愛してきたし、今でもやはり同じように愛しています。しかし僕と緑のあいだに存在するものは何かしら決定的なものなのです。(略)僕が直子に対して感じるのはおそろしく静かで優しく澄んだ愛情ですが、緑に対して僕はまったく違った種類の感情を感じるのです。それは立って歩き、呼吸し、鼓動しているのです」(同p217)
このあたりから「直子=死」、「緑=生」の対比が色濃くなってくる。
おそらく直子がこの手紙を読んでしまったという安っぽい裏事情はないと思うが、直後に直子は死ぬ。ワタナベは放浪の旅に出る。海のそばで泣く。しかし、原作でのその泣き方は映画であったような号泣ではなく「まるで汗みたいに涙がぼろぼろとひとりでにこぼれ落ちてくる」(同p226)といった類の涙であり、哀しみに暮れるための旅というよりも「その奇妙な場所で、僕は死者とともに生きた」(同)とあるように、死者たちとの折り合いをつけるための旅である。彼は思う。「結局語るべき事実はひとつなのだ。直子は死に、緑は残っている」(同p230)。
小説・映画とも『ノルウェイの森』という作品は、主人公・ワタナベが、高校時代に自殺した親友キズキの恋人・直子と東京で再会し、セックスし、直子は精神不安定になって療養所に入り、一方、ワタナベは緑と出会って、そうこうするうちに直子は自殺し、ワタナベは緑の元へ行く、という物語である。直子は「死=キズキ」と生者たちとの間の<中間層>として登場し、ワタナベは直子と一緒にいることで「死」に寄り添う形が続くが、結局<中間層>を揺れ動く直子は「死」へ引き寄せられ、一方、ワタナベは「生=緑」を選ぶことで救済される。
以上のような物語の構造を考えれば、映画で、岸壁上で直子への愛を叫ぶがごとき号泣を見せるのは、理解に苦しむ。ワタナベの放浪の旅は、「死=直子」から「生=緑」への生還を意味しているのであり、この生還の中途で原作にはない「死=直子」への執着描写を挿入することは、つまり、監督はワタナベをキズキや直子らのいる死の世界へ送り返したかったのだろうか?
まあ、原作についても突っ込みどころは多数あるわけで、この映画が傑作小説を台無しにしたなどとは毛頭考えてはいない。
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